top of page

プンダリーカ

 「プンダリーカ」とは「白蓮華(びゃくれんげ)」を意味するインドの言葉で、西照寺のご本尊「阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)」が白蓮華にお立ちになっていることに由来し命名しました。
 『仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう=観経)』というお経には「念仏の行者は白く清らかな蓮(はす)の花とたたえられる尊い人である」と説かれ、親鸞聖人も『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)』の中で「是人名分陀利華(ぜにんみょうふんだりけ)」と阿弥陀如来の本願を信じ、お念仏をよろこぶ人のことを讃えておられます。

拡大してお読みになりたい方は、こちらのPDFファイルからお読み下さい。昨年のプンダリーカもご覧いただけます。

​令和6年5月の掲示板

 「他人に迷惑をかけないように」という言葉は、よく耳にします。
私たち一人一人が様々な人との関わり合いの中で生き、それぞれの組織に身を置いて生活している以上、その思いを持つことは至極当然のことであり、他を思いやる気持ちからくる立派な心でしょう。
しかし、私たちは「他人に迷惑をかける中でしか生きていけない」ということも、同時に心しておかなければなりません。
この世に生まれ自分では何も出来ないこの私に、お乳(ミルク)をやり、おしめ(オムツ)を変え、お風呂に入れるなどの世話をしてくれた人がいます。
競争社会の世の中で、私が希望の学校に合格したり、理想の会社に就職出来た際には、その影でそこから落ちて涙している人がいます。
私がお店の商品を買ったが為にその日それを買いそびれた人がいれば、私が座ったが為にバス・電車の座席に座れなかった人もいることでしょう。
私が発した言葉で傷つく人がいれば、私がとった行いにより不快な思いをする人もいることでしょう。
私たちは、その時に自覚があるなしは別にして、よくよく考えると、他人に迷惑をかける中で生活しているのです。
 仏教の教えに、「六波羅蜜(ろっぱらみつ)」という菩薩(ぼさつ)が修めるべき六つの行があるのですが、その中の三番目に「忍辱(にんにく)」という実践行が説かれています。
「忍辱」とは字の如く「耐え忍ぶこと」ですが、この「忍」という字は左に言偏(ごんべん)を付けた、「認める」ということを意味する文字です。
他者の存在を認め、自らも他者との関わり合いの中で生きている身、つまりはお互いに迷惑をかけ合いながら日暮らしをしているということを認めていくことが、「忍(しのぶ)」ということなのでしょう。
また、「辱」という字には「かたじけない」「もったいない」という、相手から受けた好意をへりくだって言う意味があります。
この私もまた他者から認められる中で生きていた、他人にかけた迷惑を許されながら生きていたという、感謝の意をあらわすものでもあるでしょう。
「他人に迷惑をかける中でしか生きることができない私」でありますので、難しいことかもしれませんが、「他人の迷惑を許していく(認めていく)心を持つ」ことがとても大切なことなのです。

bottom of page