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プンダリーカ

 「プンダリーカ」とは「白蓮華(びゃくれんげ)」を意味するインドの言葉で、西照寺のご本尊「阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)」が白蓮華にお立ちになっていることに由来し命名しました。
 『仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう=観経)』というお経には「念仏の行者は白く清らかな蓮(はす)の花とたたえられる尊い人である」と説かれ、親鸞聖人も『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)』の中で「是人名分陀利華(ぜにんみょうふんだりけ)」と阿弥陀如来の本願を信じ、お念仏をよろこぶ人のことを讃えておられます。

拡大してお読みになりたい方は、こちらのPDFファイルからお読み下さい。昨年のプンダリーカもご覧いただけます。

​令和6年4月の掲示板

  先日、子どもが小さい頃の写真を見ていたら、一緒に見ていた娘から「お父さん、若っ!!」と言われました。
自分で改めて見てみても、「確かに若いなぁ」と思い、「着実に年を重ねているんだなぁ」と実感したことです。
確かに「過去の」自分と比較すると、「今日の」また「今の」自分が老いていることは間違いないでしょう。
しかしそれは、これからの「未来の」自分と比べると、「今日の」また「今の」自分が一番若いということでもあります。
(いつどうなるか分からないこの私のいのちですので、これから先の未来が約束されている訳ではありませんが…)
そして、年を重ねるということは決して空しいばかりのことではなく、その中で様々な出会いや経験をしたり、年を重ねたからこそ分かり頷けることや、年を重ねる中でしか味わえないことも沢山あることでしょう。
 とは言っても、「老いる」という問題は現在だけの問題ではなく、お釈迦様ご在世当時も同様だったようです。
現存する最古の経典とされる『ダンマパダ』の第十一章は「老いること」について説かれていますし、同じく最古のものとされる『スッタニパータ』の第四章にも「老い」について記された箇所があります。
また、『ウダーナヴァルガ』というお経には、
「歩んでいても、とどまっていても、ひとの命は昼夜に過ぎ去り、とどまりはしない。― 河の水流のようなものである。」(第一章・三十二偈)
と説かれています。
生まれたからには、年を重ねていくことは避けようがないということです。
しかし、その「老い」を「年をとってつまらんようになった。」と感じるのか、「これまでの人生のおかげで今日の(今の)私があったんだなぁ。」と味わっていくのかでは大分違いますし、それは私次第でしょう。
願わくば、過去と比較して「年をとってダメになった。」と嘆くよりも、これからの未来と比べると「今日の(今の)私が一番若い!」という気持ちで、その一番若い一日一日を大切に過ごしたいものです。

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